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斑尾高原

飯山市周辺には、自然劇場が広がる里山や高原が広がっています。また無形文化財や日本の原風景、いにしえの知恵が歴史の礎となった地域でもあります。ブナの原生林が広がる山々には季節毎に山菜に恵まれ、雪解けの清流に育まれ育つ美味しい米や川魚、ジビエは他では堪能できない豊富な食材に恵まれた地です。


■内山和紙、その他観光
植物のこうぞを原料とする内山和紙の紙すき体験ができる場所が近くに2箇所あります。完成品の販売もされてる木島平村の『かみすき屋』にお出かけされてみるのも近隣観光としても魅力的な場所です。『はたの』にもここのかみすき屋で作成されたランプを使わせていただいていますが、心和む灯かりは和紙の魅力をさらに引き出しています。

飯山市は、お寺が20以上あることから寺の町として知られており、文豪・島崎藤村が「雪国の小京都」と呼んだほどです。 風情ある街並みを散歩しながら、この地で親しまれている由緒ある各寺社をご参拝してみてはいかがでしょうか。

■正受寺
臨済宗の再興者、道鏡慧端(どうきょう・えたん)またの名を正受老人が終生を過ごした庵。道鏡慧端は松代藩主真田信之(幸村の兄)の子で、飯山城で生まれ育ち、若くして仏教に帰依し、江戸や東北各地の寺院で修行を積む。やがて悟りを開き帰郷した道鏡慧端のために飯山城主松平忠倶がこの庵を建設し、師の至道無難から贈られたとされています。

■片山稲荷神社
江戸時代(1607年)に、飯山城藩主の片山主水が建立したといわれている。稲荷明神を信仰し、その後伏見稲荷より社格を得て、信州一之宮と称するようになった。

■称念寺
称念寺は庭園と紅葉の美しさで知られます。(見頃11月上旬から中旬)寺人が大事に手入れをしている庭園は、楓の芽吹きと秋の紅葉が見事であり、落ち着いた景色のもと参拝と併せて楽しむことができる。現在の本堂は、正倉院校倉式を模して昭和43年に再建。本尊の阿弥陀如来像は室町時代の作とも言われている。明治の南画家長井雲坪のゆかりの寺で、この寺の25世智賢が、寺に招き弟子となって水墨画を学んだ。

■西来寺
1607年の創建。もとは西敬寺の塔頭であったと言われています。明治2年、現在の場所で独立しました。
塔頭(たっちゅう)とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後に、弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院となります。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説もあります。

■真宗寺
小説『破戒』の蓮華寺のモデルとして知られ、寺の脇には、第一章の一節を刻んだ文学碑が建っています。島崎藤村が明治35-36年頃取材の為数回来泊したことは『千曲川スケッチ』等にも記載されております。二十四世の妹つるえは「ふるさと」「おぼろ月夜」など多くの唱歌を作詞した高野辰之に嫁いでおり、博士の多くの書が残されています。昭和27年(1952)の飯山大火の際に山門や本堂等を焼失し、藤村が訪れた時代から残っているのは六角堂のみ。

■妙専寺 愛宕町
信州にはじめてスキーを普及させたのが、この寺の第17代住職の市川達譲(いちかわたつじょう)と言われています。日本にスキーが伝わった際に越後高田でレルヒ少佐より一本杖スキーを習い、飯山地方に普及させて2012年でちょうど100周年。それ以来、飯山は長野県のスキーの発祥の地となっている。参道は達譲が長野県で初めて一本杖スキーでシュプールを描いた場所として知られています。

■妙専寺 神明町
愛宕町にある妙専寺の分院。昭和23年本堂は焼失したが、昭和55年に再建された。
島木赤彦の弟子で、短歌「アララギ」の代表的歌人であった土田耕平が、大正12年この寺で病気療養していたことから、島木赤彦も幾度かこの寺を訪れたといわれている。本堂前には平成5年に建立された土田耕平の歌碑がある。

■光蓮寺
江戸時代に一世を風びした画僧・学僧で、詩人としても知られた武田雲室の出身寺ともなっている。 また島崎藤村の小説「破戒」に出てくる当時の飯山町の風景描写は、この寺の庫裏から見て書かれたとの話も残っている。

■常福寺
道場を併設し、普段は朝のお勤めの時間で坐禅を行っています。
円座を借りて、装飾品を外し、裸足になって仏間に入り、壁に向かって一列で坐禅を組みます。 1時間ほど雑念や妄想を相手にせず、ただひたすら姿勢を正して坐り続けることで、精神統一を行う、禅の修行のひとつが体験できます。


■高源院 あじさい寺
飯山市戸狩スキー場サイドに佇む高源院は、「あじさい寺」の愛称で親しまれている曹洞宗のお寺。 6月下旬~7月上旬、境内や参道は梅雨を彩る青や白、紫のアジサイ で埋め尽くされ 大いに見ごたえがあります。



■西敬寺
川中島合戦の時、武田信玄が東方から一条の光が差し出ているのを見とどけ、その光が西敬寺の太子堂からものであることを知り、この太子堂に深く帰依しました。その功徳なのか像に残る傷はしばしば信玄の身代わり役を演じたためといわれています。現在でも太子像は熱心な信仰を集め、毎月22日に太子講が営まれています。

■本学寺
南北朝時代に、新田義定の家臣桐山入道忠道により開基された。天保11(1840)年に、大火に会い焼失廃絶していたところを、明治10(1877)年に成田観成によってこの地に移され、現在に至っている。

■蓮證寺
蓮証寺の開基は、浄土真宗の蓮如上人に帰依した、近江守護佐々木(六角)氏の嫡男左衛門督尚高とされます。京都山科より信州芋川(現:飯綱町)に移転の後、寛文7年(1667)に当時の飯山藩主松平忠倶からの招きを受けて、現在の地に移りました。境内に建立された聖徳太子堂は江戸時代より飯山の職人衆の崇敬の対象とされ、例年正月の21日には太子の奉賛法会が行われているそうです。

■英岩寺
初代飯山城主泉重信の菩提寺で、飯山市街地で最古の寺。永仁年間天台宗の修験道場として創立され、その当時は江岸寺と呼ばれていた。戦国期に衰微し、文禄4(1595)年、高源七世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、『英岩寺』と改名し現在に至る。今の本堂は安政3年に建立された物。
上杉謙信の直臣で「鬼」と呼ばれた槍の名人小島弥太郎は、川中島合戦で深傷を負い春日山城へ帰る途中、足手まといになるとこの地で自害して果てたと伝えられており、寺の裏手にその弥太郎の墓がある。

■小菅神社
小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。

■建御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)
建御名方富命彦神別神社は、『延喜式』神名帳に記載されている信濃国水内郡の式内社(名神大社)。延喜式(えんぎしき)平安時代中期に編纂された格式で、三代格式の一つであり三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、細かな事柄まで規定されているため、古代史研究のうえで重視されている『延喜式』神名帳には信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社 名神大」と記載されたが、その後所在がわからなくなっており、現在に至っても以下の3場所で比定の決着はついていない。
1. 健御名方富命彦神別神社 長野市大字長野字本城東2411
2. 健御名方冨命彦神別神社 長野市信州新町大字水内斉宮315
3. 健御名方富命彦神別神社 飯山市大字豊田字伊豆木原3681-1
文献では、持統天皇5年(691年)に天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述があり、これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられています。

■善覚寺
正受老人と親交のあった中野不白居士の墓もある。

■楯之平出雲社
縁結びから地域活性や商売繁盛、家内円満、その中でも特に交通安全には奥深い信仰のある神社とされている。

■西念寺
1639年、親鸞聖人の高弟24人のひとりである常念坊が開山。飯山藩主松平氏に従い、遠州掛川から各地をめぐり、飯山に移ったとされている。裏山の墓地に、松平家の家臣の墓が多く見られる

■飯笠山神社
上杉謙信が川中島の戦いの前線基地として、飯山城を築城の際に、城山にあったものを現在地に移転した。飯山城の守護神として、歴代城主から手厚く尊敬され、地元でも二年参り、七五三など町の生活と結びつきながら、信仰を集めている。

■本光寺
飯山城を築城されたときに、お城の守り神「七面大明神」をこの位置に移してお祀りしたのがこの寺の起こりです。
それ以来、当山は、お城の真西にあってお城を「七面大明神」によって庇護する役割を持ち、住職がお城の出入りを許された寺です。

■大輪院
歴代飯山藩主の祈願所とされたお寺。慶長2年(1597)に、関長門守一政が飯山に国替えとなり、菩提寺である忠恩寺を飯山へ移したが、同じ頃、愛宕大権現を愛宕山に勧請し、その別当寺として大輪院が建立された。奈良の長谷寺の末寺。かつてここにあった「あたごの鐘」は、時の鐘として、長く飯山地方の人々に親しまれた。

■忠恩寺
歴代飯山城主の菩提所となっており、城主松平家ならびに本多家の墓所がある。慶長6(1601)年に関長門守が長野の長沼より飯山へ移った際に、この寺も一緒に移ったとされる。
黒本尊は本多廣孝が徳川家康公から拝領したものとされ、護国殿に安置されている秘仏で、毎年8月15日のみ公開されている。 本堂外陣の竜の天井絵は、どの位置から眺めてもその人の方を見ているので八方にらみの絵といわれている。また、竜は水を呼ぶということから、建物を火災から守るとも信じられている。

■明昌寺
別名明照寺ともいい、太田村北条より現在地に移った。もとの場所には、現在も妙正寺という寺屋敷のあとが残っている。初夏には六地蔵の祀られた参道をあじさいが彩る

■大聖寺
江戸時代初期の飯山藩主・堀家、佐久間家の菩提寺。創建は木曾義仲の臣、今井兼平の子孫によると伝わる。
敷地内には、多くの被害を与えた1847年の善光寺大地震の犠牲者慰霊供養のために造立された、黄金石(こがねいし)地蔵が安置されている。また、明治初年、山岡鉄舟が正受庵再興のために来飯した際、堂室中の間に雄渾な筆跡を残した。

■慶宗寺
飯山城主佐久間安次の伯父、佐久間安宗が、入道宗慶(むねよし)と改め、城主備前守から境内千坪と寺領2石を賜り、寺を建立したのが始まりと言われる。その子、孫市が、元和6年(1620)法光山林昌院慶宗寺とした。

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